衰退も当然だ、メディアと記者が傲慢すぎる

ジャーナリスト
(イメージ)メディア、中で働く記者の信頼性が揺らいでいる(iStock)

メディア、記者への批判が広がる。しかも「お客様」であり、情報の「仕入れ先」である一般の人の不信が根強いのに、中の人は気づいていない変な状況だ。私はかつてそうした記者の一人だったが、そのメディアの外に出て細々と文筆業をしている。その立場から見ると、社会からの批判は当然で、業界がかなりおかしい。自分がその職業だったことに悲しくなる。目についた行為をいくつか取り上げ、その傲慢さについて考えてみたい。

おかしな理屈、毎日新聞のオフレコ破り

荒井勝喜首相秘書官が、性的少数者や同性婚をめぐるオフレコ発言が報道され、2月4日に更迭された。これらの政策をめぐり、同性婚について「僕だって見るのも嫌だ。隣に住んでいるのもちょっと嫌だ」「社会に与える影響が大きい」とオフレコ取材で述べた。それを毎日新聞が報道してしまった。

この2点について「発言の中身」と「オフレコを報道していいのか」という議論が起こった。

中身については、ちょっと配慮が欠けるという印象はあるし、私と考えは違う。同性婚は私も反対だが見るのは嫌だとは思わないし、この発言を不快に思う人もいるだろう。けれど、それは個人の感覚であって、それを断罪する社会は少し怖い。

オフレコ報道について考えてみよう。オフレコとは、「Off the Record」の意味で、事実として記録せずに背景解説などを匿名で関係者が行うことだ。語源が英語であることからもわかるように、他国(と言っても日本の場合、米英だが)でも行われる。英文記事でも「関係筋」(Related sources)とか「バックグラウンドによると」という表現が出てくる。

今回の騒動では毎日新聞の女性記者が抜け駆けをして報道したようだ。毎日の記事によるとこの取材では「名前を出さず、直接引用せず」という縛りがかかっていた。ところが「発言は、性的少数者を傷つける差別的な内容であり」「政策立案に関わる人が、こうした人権意識を持っていることは重大と判断」し、荒井氏に「実名で報道する旨を事前に伝えたうえでニュースサイトに掲載した」という。(毎日新聞記事「オフレコ取材報道の経緯 性的少数者傷つける発言「重大な問題」)
多くの人と同じように、私はこの説明に違和感を抱く。

メディアは重大性を決められるのか?

オフレコ取材は、オンレコでは言えないことを取材源にしゃべらせ、背景を知るための機会だ。官庁や政治家が設けることがある。あったほうが取材する側にはいいというのが、取材する側、される側にとっての本音だ。結局は、その情報は、その先にいる読者の役にも立つかもしれない。

オフレコを多用され国家権力とメディアが国民から重要情報を隠すことに不快感を持つ読者もいるだろう。私も使われすぎては困ると思う。しかし、表と裏はどの世界にもあり、ある程度あっても仕方ない。

荒井秘書官は軽率だ。しかし今回の場合のように、いきなりルールを記者が変えて、相手を貶める形で報道する大騒ぎするのは違和感がある。しかも努力もなく情報を得ている。毎日新聞のいう「差別」「重大」というのは、記者とメディアの主観だ。前述のように、荒井秘書官の考えを、差別とも重大とも思わない人は多いだろう。そして毎日新聞が何十社もが関係する取材の形も、勝手に変えてしまうかもしれない。

この行動には、毎日新聞が自分たちは物事の価値判断を決められると考えているような、傲慢さが見えてしまう。

あまりにも傲慢な記者たち

メディア、記者には傲慢さが強まり、一般社会と乖離している傾向を私は最近感じる。このところ炎上した書き込み3つを紹介してみよう。

一つ目は、記事を見せろと言った一般人を批判する、新聞記者と自称する人の書き込みだ。新聞記者より医者、弁護士などの専門職が、問題を知悉しているはずなのに、記事を確認させろと言った人を批判している。自分が優秀だと思っているのだろうか。炎上し、この人はツイッターアカウントを削除してしまった。ちなみに私は、事実関係のみについては他人の確認を、記者として必ずするようにしている。メディア所属の時には見せなかった。それは間違った情報を広げられかねない相手への、当然の行為と考えていた。

二つ目は、中日新聞記者による、このコロナ禍での医療関係者の評価と報道をめぐるコメントだ。誤報により苦労している人へ、責任はその人たちにあるという。加害者が、被害者に悪いと言っているようなものだ。炎上し、この人は当該投稿を削除しツイッターをしなくなった。

三つ目は、朝日新聞記者のコメント。森喜朗元首相がオリンピック組織委員会会長を「女性は話が長い」との発言で辞職した時のものだ。「私たち」とはメディアに読み取れる。傲慢だ。この人はまだ堂々と記者活動をしている。

こうしてメディア関係者の間から頻繁に、こうした選民意識、傲慢さを感じる言葉が出てくる。どうもこうした傲慢さが今の日本のメディアの特徴のようだ。毎日新聞の、秘書官を断罪する「異端審問官」のようなオフレコ破りの行動は、この延長にあるように思う。

今のメディアは、新聞、テレビとも急速に売り上げと存在感を落とし、衰退している。そこに残る人は、沈むことがわかっているタイタニックに乗船しているようなもので、少し変わっている人たちといえよう。昔と違ってメディアの就職試験は高倍率でもなくなっていると聞く。そこで働いている人たちは、どうも変な空気に取り囲まれ、自分たちの異様さに気づいていない。こうした人たちばかりによって運営されていると、メディアが一般社会から遊離し、嫌われ、衰退するのは当然かもしれない。

私はかつて通信社記者だったが、自分のいた世界が、おかしな、傲慢な人たちに壊されていくのは悲しい。「記者は頭(ず)が高くなるから気をつけろ」と諸先輩に指導を受けられた。そうした自戒を込めつつ仕事のできた私は幸せだったのだろう。

ちなみに私は記者歴の中で、傲慢かつ優秀な記者と思ったのは、読売新聞社の主筆、渡邉恒雄氏しかいない。彼も、ある案件で私が歩きながらコメントをお願いしたら立ち止まって優しく答えてくれた。記者は人に話を聞いて文章を書くのだから、傲慢な人間には情報を取れるわけがない。

責任を取らされるメディア、変化の最後の機会

そしてメディアと記者は責任を取らされる時代になっている。最後に四つ目の変な記者(らしい人)の話を、蛇足ながらつけたそう。

朝から晩まで、他人の悪口を書いていた「桜ういろう」というツイッターアカウントがあった。私も延々と罵倒された。ある日本在住のウクライナ人青年に対して「金を〇〇からもらっているのか」などとデマと、ウクライナ戦争の犠牲者を冒涜していた。彼にとって気に入らない「ネトウヨ」と認定した人を片端から攻撃していたらしい。一日数十件の書き込みを毎日行い、ネットストーカーと言われていた。仕事をしていなかったのだろうか。こんなことを言っていた。

ところが間抜けなことに、正体がバレたようだ。最終確認はされていないが、共同通信の記者かもしれないという情報が流れている。その情報が流れた後で、本人はアカウントを閉鎖してしまった。凄まじい批判が広がっている。

本当のところはどうなのか。未確認情報を確かめるため、共同通信に、私は以下のメールで問い合わせてみた。あくまで確認だ。返事は返ってこないだろうが。返事があったらまた知らせたい。

「天網恢恢疎にして漏らさず」。老子の言葉だ。天の意思は網の目が粗いようでいて、全てを把握し絡め取ってしまうという意味だろうか。その言葉通り、メディアのこれまでの傲慢さの報いが個人でも、組織でも、やってきているようだ。それを変えなければ、日本のメディアに未来はない。

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