東京のど真ん中の「戦争犯罪」−過去の虐殺にどう向き合うか?

ジャーナリスト
(写真)日本空襲に使われた米軍のB29(iStock/csfotoimages

回顧の中で出た「戦争犯罪をどうするか」の問題

戦争犯罪をめぐる話をしたい。2005年のことだが、時間が経過したので、ここで書いていいだろう。この年は敗戦から60年で、社会ではいろいろな回顧話が盛り上がっていた。私は東京都の足立区千住に親戚がいるが、その近くに住む郷土史家に郷土博物館や毎月の足立区報に掲載する特集の意見を求められた。

その時に同区では戦争の体験談を集め、展示をする計画で、その人も関わっていたという。その方は既に亡くなっており、どの程度、区の活動に関与したかは今となっては分からない。私が趣味で戦史に詳しいということと、メディア関係者であったため、世の中の反響の意見を欲しいというものだ。

足立区の千住で起こった惨劇、「上野憲兵隊事件」を公開すべきか、という話だった。

上野憲兵隊事件とは何か

(写真)空襲による東京の破壊。5月の空襲での東京数寄屋橋付近。(Wikipediaより)
(写真)空襲による東京の破壊。5月の空襲での東京数寄屋橋付近。(Wikipediaより)

私もその事件の存在は知っていた。以下、その内容だ。

第二次世界大戦中に東京は何度も空襲を受けた。1945年5月25日夜から26日早朝にかけての空襲で東京西部、北部が焼かれた。この時に千住も燃えた。そのうち1機が足立区入谷町に墜落、搭乗員11名のうち2名が墜落死し、8名が捕虜になった。

足立区千住近郊に落下傘降下した米軍のK少尉(別記録では航法士、26歳だったと筆者は記憶している)が逃亡。荒川放水路の支流付近で、捜索中だった警防団と遭遇し、発砲した結果、1名を殺害1名に重傷を負わせた(後日死亡)。同少尉はその2日後、西新井駅(足立区)に停車中の貨車に隠れているところを駅員が発見。警察官と警防団に捕らえられ、東京憲兵隊上野分隊に引き渡された。分隊長のH少佐は、東京憲兵隊長の大谷敬二郎大佐から「殺人を犯した米兵を捕虜として扱う必要なし」との指示を受け、N曹長に命じて千住新橋付近の河川敷でK少尉を処刑させた。

敗戦後、処刑を命じたH少佐は自決。大谷大佐は逃亡したが、潜伏中に逮捕された。殺害したN曹長とともに横浜軍事法廷におけるBC級戦犯裁判でそれぞれ懲役12年と懲役10年の判決を受けた。2人は1952年のサンフランシスコ講和条約発効後にあった戦犯の特赦で釈放された。

記録されなかった事実−「晒し首」の衝撃

(写真)足立区に住む知人が送ってくれた2019年7月の大雨で水が土手に迫った荒川放水路。奥に見えるのが千住新橋(左)と千住地区。千住新橋は1974年に架け替えられた。ここで記した処刑が、どこで行われたかは不明
(写真)足立区に住む知人が送ってくれた2019年7月の大雨で水が土手に迫った荒川放水路。奥に見えるのが千住新橋(左)と千住地区。千住新橋は1974年に架け替えられた。ここで記した処刑が、どこで行われたかは不明

ここまではWikipediaにも出ている記録である。大谷大佐は戦後回顧録を出したが、殺害を命じていないと書いていたと読んだ記憶がある。

しかし歴史には、記録されない隠れた話がある。当時の郷土史家の話だと、その処刑は斬首で、警防団や周辺住民に見せしめのため公開され、死体はしばらく晒(さら)されたという証言があったという。また警防団などによって、捕虜は暴行を受けていた。ここは千住の市街地の近くだ。空襲で被害を受けた千住の住民の恨みを晴らすためだろう。

私はTwitterをやっているが、このことを述べると、地元の歴史に詳しい方から連絡を受け、2022年に以下の追加情報を知った。住民の聞きとりで出た話という。殺害後に米兵の頭部が「晒し首」にされたという証言が残っている。遺体が河川敷に埋められたため、戦後に米軍がこの近辺を日本の警察に命じて調査したが見つからなかった。周辺住民が殺害や暴行に関与したかどうか、日本警察の取り調べを受けた。米兵に撃たれたのは警防団ではなく、近くにいた住民である可能性がある。こんな内容だった。ただし、これらは伝承であり、確認された文章にはなっていない。区などが記録を自粛したようだ。

足立区のこの地域は、今は住宅街だ。当時は工場と農地が入り混じる場所だった。かつて日光街道の宿場で、東京の食品市場があった千住の端にある。

新情報を考えると、かなり残酷な事件であり、東京の市街地の一角で「晒し首」があったとは、かなり衝撃的だ。敵地に降りた米兵も怖かったので乱射しただろう。また空襲の被害者だった足立区民も、憲兵隊も激昂していたのだろう。そして、私は日常に戦争が突然入ってきたこのような事件があった場合に自分がどうするだろうかを考えた。憎しみを敵兵にぶつけるに違いない。この事件で亡くなった方、関係した方の全てに哀悼を示したい。

「あいまいにしましょう」という私の提案に…

(写真)足立区入谷町の農地に残っているB29のタイヤ。この事件で墜落した飛行機のものらしい。(足立区役所記事「B29のタイヤが残っています」)(筆者撮影、2017年ごろ、現在の状況は不明)
(写真)足立区入谷町の農地に残っているB29のタイヤ。この事件で墜落した飛行機のものらしい。(足立区役所記事「B29のタイヤが残っています」)(筆者撮影、2017年ごろ、現在の状況は不明)

私はこの郷土史家に2005年当時、次の趣旨の意見を述べた。「米兵を追い回した人で存命の人もいるでしょう。足立区はその姿が戦前の農村と東京の境から、今は住宅地に変貌して住民も入れ替わりましたが、そうした人が近くに住んでいる可能性があります。残酷な事件ですし、今のネット時代、批判され、噂が生まれ、それで存命者が傷つくかもしれません。80歳を超えた人が、過去の責任を問われるのは忍びない。また地域にも、不快感を持つ人がいるでしょう。全く触れない、触れてもあいまいにするべきです。それよりも足立区には、空襲で墜落したB29に乗っていた米兵の遺体を葬った美談があるそうなので、そちらを強調したらどうでしょうか。戦争の異常事態が起こした悲劇ですが、私たちはそれを裁くことはできません」。

実は、これと似たB29搭乗員の虐殺事件は、昭和20年に日本各地で起きている。当時、ざっと図書館でその後の記録を調べたが、どの地域の行政も歴史家も、問題を掘り起こしていなかった。また戦争直後は左派色が強く、軍部批判に熱心だった新聞だが、どこも取り扱っていなかった。地域の住民が関係しており、報道で混乱を広げてしまうためだろう。

その郷土史家も「そうですよね」と、私の意見に同意した。その後、その人からその趣旨の意見具申をしたこと、区の展示が私の意見通りになったとの連絡を受けた。もちろん私の意見だけが影響したとも思えず、区の関係者の総意だったのだろう。数年前、私は足立区郷土博物館に行った。この上野憲兵隊事件の展示はなく、足立区民が搭乗員の遺体を葬った話は掲載されていた。この問題で、私は足立区や当時の関係者の決断を批判するつもりはない。

頻発する歴史認識問題の解決策

さて、ここで読者に問いかけたい。「あなたなら、このような問題が身近に存在する場合に、どのように向き合うか」ということだ。歴史をどう受け止めるかは今、日本でも世界でも問題になっている。真面目に反省しようという善意に加え、政治勢力が社会対立や自分の目的のために騒ぐこともある。

2020年に人種差別の抗議が米英で広がった時に、左派過激派が当時の奴隷所有者だった人の銅像を壊して歩いた。韓国は今でも植民地時代の批判を日本に行う。沖縄のメディアは80年前の戦争での日米両軍の犯罪行為を暴き、県民は被害者と、日本と米軍批判に使う。北海道は「開拓記念塔」がアイヌの視点がないと批判され、解体するかどうかの騒ぎになっている。おそらく、今進行しているウクライナ戦争でも、両軍による戦争犯罪はこれから暴かれるだろう。

実はもう対応法の正しい答えは出ている。「あいまい」にすることが正しい。ここで言う「正しい」とは社会混乱をもたらさないと言う視点での判断だ。もちろん「あいまい」とは明らかな悪、例えば過去行われた、植民地支配、殺人などの犯罪や人権侵害を、今許容するという意味ではない。今起こっている問題は、私たちの世代が責任を持って解決しなければならない。過去の出来事を、現在の価値観で断罪するという傲慢な行為をせず、当時の価値観や事情を考慮し、先人の行動を理解するという意味だ。個別の事件は、多くの場合、私たちに直接関係はないのだから、わざわざ騒いで、社会問題にする必要はない。歴史認識をあいまいにするという選択が正しいことは、足立区でこの問題が今、騒動の種にならず、区民が平穏に暮らしていることを見てもわかる。

歴史問題をおもちゃにして、政治的に騒ぐ道具にする人は、この結末から、自分たちの行為のおかしさを知ってほしい。

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