「群衆の危険」に注意せよ−ソウルの将棋倒し事故から考える

ジャーナリスト
(写真)群衆という存在が時に危険になる。渋谷のスクランブル交差点(iStock)
(写真)群衆という存在が時に危険になる。渋谷のスクランブル交差点(iStock/CHUNYIP WONG

頻繁に起こる都市での「将棋倒し」事故

韓国のソウルで29日、ハロウィンに繁華街梨泰院に集まった人たちが将棋倒しになり、約150人の若い方が亡くなった。報道によると、アイドルのイベントで人が集まって、人が街路から身動きが取れなくなり、坂の上にある会場で人が転んで、その外まで転倒と圧死が広がったという。あまりにも痛ましく、死傷者を哀悼したい。

ただ都市では、こうした群衆が一ヶ所に集まり、将棋倒し、圧死などの大災害が起きることがある。例えば、日本では明石市花火大会歩道橋事故では、2001年7月に11人が将棋倒しで亡くなった。また二重橋事件では1954年に新年一般参賀で集まった人が皇居二重橋で同様の事故に巻き込まれ、16人が亡くなった。

海外に目を転じると、今年10月、インドネシアのサッカー場で約130人が死亡した。試合終了後にグランドに乱入したファンに警官隊が催涙弾を撃ったところパニックが発生して人々が出口に殺到し、圧死と窒息死が起きた。

1941年6月に日中戦争での日本軍の重慶爆撃では防空壕に逃げ込もうと市街地で人が混乱し、一説には一日で数千人が圧死、窒息死したという。イスラム教の聖地メッカの周辺部では、巡礼者の将棋倒しで1990年7月に約1400人、2015年9月に約2180人の圧死事故が起きた。この種の事故は決して珍しいことではない。

日本では「群衆」の危険に気づかない

ところが、日本では、この危険の認識が一般的になっていないようだ。例えば日本政府は、内閣官房国民保護ポータルサイトで、「武力攻撃やテロから身を守るために」というパンフレットを出している。そこで、弾道ミサイルが飛んでくる警報が出た時に、人々が地下に逃れることを推奨している。(6ページ)

今起きているウクライナ戦争では、同国のキーウ、ハルキウの地下鉄が市民のシェルターになった。これらの地下鉄は旧ソ連時代から、防空壕として整備されて地下に広さを持って作られていた。一見すると、日本政府の言うように、ミサイルが飛んできた場合に、地下に逃げることは正しいかもしれない。

しかし現実には問題がある。これは私の撮影した東京の銀座で最も人が集まる銀座4丁目交差点和光前の地下鉄入り口だ。これは戦前の狭く2人が通れる程度の入口のままだ。この周辺500メートルには、平日でも休日でも観光客や働く人で数万人の人がいるだろう。その人たちがこの狭い入り口に一斉に向かったら、圧死、将棋倒し事故が必ず起こる。通常弾、もしくは核弾頭搭載のミサイルが北朝鮮や中国から飛んできても、まず状況を観察し、地下に逃げることが危険と分かれば、地上で堅牢な建物に身を隠した方が合理的だろう。また群衆の集まるところでは、将棋倒しや圧死事故が起こる可能性を念頭に置き、危険を感じたら、その場を離れる判断をするべきだ。「君子危きに近寄らず」。

(写真)銀座の地下鉄駅入り口(筆者撮影)
(写真)銀座の地下鉄駅入り口(筆者撮影)

実は危険な政治デモ

群衆にはこうした将棋倒し、圧死のリスクがあるだけではない。そうした集団、特に政治デモなどの場合には、鎮圧行動やパニックに巻き込まれてしまう場合がある。

1980年代から90年代にかけて、軍事系出版物で活動した柘植久慶氏と言う作家がいた。傭兵としてインドシナなどで活動していた。この人は、その危険を求めた自らの激しい経歴と違って、護身術では「危険に近づくな」と繰り返していた。

出典は忘れたが、その中で「群衆」の怖さを強調していた。人間の集団そのものが凶器になるという発想が若い頃の私にはなかったので、印象に残っている。日本ではメディアはデモを「正義の市民による当然の権利」などの趣旨で、当時は褒め称えていたからだ。

私の記憶と断るが、柘植氏は次のように指摘していた。人が集まると独特の雰囲気が発生し、主催者がいても、群衆をコントロールできない、もしくはそれができなくなる。特に政治集会の場合などは人々が感情的にかなり熱くなり、デモ参加者も、治安当局者も行動が過激になる。将棋倒しに加え、鎮圧活動による発砲、双方の暴力、混乱が発生する。海外で政治デモを面白半分に見学に行ってはいけない。安全な日本のデモと、全く違うという趣旨だった。

この雰囲気を私は感じたことがある。2012年ごろから極左集団、また日本共産党が国会前で反原発デモを繰り返した。すると福島第一原発事故の直後であったためか、人が集まった。1990年代以降、学生運動や労働運動が下火になったため、デモなど日本ではその頃は小規模のものしか行われていなかった。

おそらく1970年代にデモなどを繰り返した団塊の世代が、2010年ごろから退職して暇になったため、人が少し集まったのだろう。ただし、それでも数は多くて数千人程度だった。その後、共産党や極左などの政治集団はデモを繰り返するようになった。デモというのは、インターネットが発達し、行政が確立している日本で、とても古臭く効果のない手法と思う。こうした古い頭の左派勢力は、勢力が落ち目の状況でなりふり構わないのか、組織の求心力を保つためか、デモという手法に飛びついた。

メディアはこうしたデモを「市民が立ち上がった」などと、好意的に伝えた。しかしそれは嘘だ。私は何度も、国会前のデモを見た。反原発や、安全保障関連法などの際に大きなデモがあった。そうしたものの実際の雰囲気はかなり異様だ。政党、労働団体や政治集団の幟(のぼり)が乱立し組織動員ばかりが目立つ。そして崩れた雰囲気の高齢者たちが、騒いでいる。「崩れた雰囲気」とは、騒がしく、警察官にくってかかるなど品がなく攻撃的で、だらしない服装の人が多いという意味だ。変に興奮状態にある人物もいた。

常識のある「普通の」日本国民は暇なら観察に行けばいい。メディアが嘘をつき、私の描写が正しいと分かるだろう。もちろん純粋な気持ちでデモに参加する人もいるだろうし、それは尊重する。しかし隣におかしな人がいる可能性があることは、誰も教えないが認識した方が良い。

そうしたデモに、日本の警察は紳士的に向き合っている。しかし海外の場合は先進国でも、今でも平気で政治デモを暴力的に鎮圧する。ロシアや中国などの強権的な異常な国は、そうしたデモに参加するだけで、命に関わる。日本でも、メディアに釣られて、こうした政治的なデモや群衆に、関わらない方がいいと思う。何が起こるか分からない。そして群衆を目標にしたテロも考えられるだろう。

処世術でも無駄な騒ぎに関わらないのが合理的

「興奮した群衆に近づかない」。これは処世術でも役立つかもしれない。人々が集団で集まって、熱くなっている場所にも運動にも、近寄らない方がいい。そういう熱狂からはまともな結果が生まれることは少ないし、無意味なばかりか、予測のつかないことに巻き込まれ損をしてしまう可能性があるからだ。

日本では明石市の事件以来、こうした将棋倒しの事故は発生していない。韓国での犠牲を哀悼しながら、イベントなどの警備に関わる人は官民ともにもう一度安全を確かめてほしい。そして自分の生活でも、処世術でも、群衆の危険に気をつけるべきだと思う。

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