LGBT推進法、推進政治家は報いを国民に受ける

ジャーナリスト

LGBT推進法の奇怪

LGBT問題は、権利の拡充という前向きの話ではなく、日本では争いの種になっている。(イメージ、IStock)

LGBT推進法という理念法が国会で審議され、賛成反対で騒ぎになっている。性的少数者の保護をめぐる理念法だ。あってもいいだろう。しかし性自認、例えば男性なのに女性と自分を認識する人の権利を保護しろという主張が盛り込まれ、また性的嗜好の少数者の権利拡充を過剰に認めるなど、かなり問題があるものだ。それなのに今月中に国会で成立しそうだ。

最近、こういう理念法を作ると、それ根拠にに活動家が裁判などで敵を攻撃することに使う。例えば、ヘイトスピーチ法とか、男女の平等を定めた人権法でそうなっている。これを根拠にしたトラブルや、訴訟が多発するであろう。また今、騒動になっているColabo、WBPC問題のように、変な団体が公金を要求する法的根拠になる。とても危険だ。

海外では性自認が常人と違い、自分を女性と称する男性によって、女性への犯罪、嫌がらせ行為が報じられる。日本でもそれを主張する男性が女湯に入るなど異様な事件があった。こんな行為も人権の名目で保護するのだろうか。

権力に媚びを売る自民党議員たち

政権与党の自民党の態度も異様だ。岸田文雄首相・同党総裁は、法律の成立を求めているが、問題に積極的に関わらず、国民に意思を示さない。自民党執行部もそうだ。責任逃れをしているのだろう。党内でもかなりの異論がある。なんで今、無理に法律を作るのか不明だ。海外に同種の法律があるという消極的な理由らしい。

そして自民党の議員たちもみっともない。岸田首相の指示を受けて「鉄砲玉」として推進の中心になっている議員たちが、保守派から袋叩き状態になっている。その推進「鉄砲玉」には安倍側近と自称した自民党の政治家たち、具体的な名前を出すと、稲田朋美、新藤義孝、古屋圭司の各議員がいる。

この法律は安倍晋三氏が首相、自民党党総裁だった時には議題にならなかった。安倍氏がおかしさを指摘していたからだ。それなのに昨年7月の安倍氏の暗殺の後で、急に政治課題となった。これは裏切り行為だ。

ジャーナリストの山口敬之氏が月刊誌HANADA6月号で、稲田氏を批判している。法案取りまとめの過程で、勝手に野党と合意した稲田議員は、安倍氏に叱られると安倍氏の前で泣いた。また地元福井の保守派がLGBTの肩入れに彼女への支援を止めようとした。すると安倍氏に電話してもらって支持を繋ぎ止めた。その際に安倍氏に「もうLGBTはしません」と言ったそうだ。事実とすれば恥ずかしい。岸田首相の意向に従い、権力に媚びを売っているように見える。ポストでも欲しいのだろうか。(リンク・「LGBT法案、稲田朋美の裏切り」)

態度があいまいなリーダー岸田首相や、自分の目先の利益や役職を求める政治家は、長い目で見ると、結局大きな損をするし、社会や国民のためにならない。日本は民主主義国だ。多くの人の意見は正しいことが多いし、投票によって民意は必ず後に返ってくる。民の声は天の声だ。

かつての日本にあった、潔い軍人の出処進退ー米内光政海軍大将

話は変わる。だらしないリーダー、出世欲に駆られた政治家と対比する政治家・軍人の話を思い出した。海軍大将、首相の米内光政(1880−1948)の出処進退を思い出した。彼のひ孫の紘政氏(33)、一族の出身で岩手県議になり、今度衆議院選挙に出馬するという。

(写真2)米内光政海軍大将、連合艦隊司令長官時代、1936年、旗艦陸奥にて。美男子で見栄えの良さで知られた(ウィキペディアより)

昭和8年(1933年)、米内光政は海軍中将として第三艦隊司令長官だった。この艦隊は上海に常駐し、中国での日本の権益を守る役割があった。その年、砲艦(川を遡れる小型艦)2隻の艦隊で長江を遡り、首都南京を経て、上流の重慶まで行く計画を立てた。当時、日中間は満州事変の後で緊張し、政府の意向で威嚇や偵察の意味もあったのだろう。一方で、米内は当時の中華民国主席の蒋介石の親善も企画した。

ところが重慶の手前の難所の三峡で水路図にない暗礁があり、砲艦が座礁してしまった。1ヶ月後、引き上げ作業をしてそこを離れることができた。米内は処置をした後で、「責任は本職に帰す、謹みて命を待つ」と報告、つまり進退伺を自分で執筆し、先任参謀だった保科善四郎中佐(のち中将、衆議院議員)に打電を命じた。当時、海軍内部は「艦隊派」と呼ばれる強硬派が実権を握り、派閥色のない米内も責任を問われる可能性があった。保科参謀は米内の潔さに感銘を受け「私に預からせてください」と言って、電報を握りつぶした。非常時の時に米内が必要と予感があったという。責任は事故ゆえに問われなかった。

その4年後に、米内は海軍大臣になる。海軍省軍務課長だった保科は課長たちの意見を取りまとめ、山本五十六海軍次官・中将(のち元帥)に「米内大臣を希望」の意見書を提出した。こういう行為は保科も傷つく可能性があったが、米内を信頼していた山本はそれを利用して永野修身海軍大臣に退任を迫り実現した。米内自身は、1937年から38年海軍大臣、1939年の首相、1944−45年に海軍大臣となった。首相在任中は陸軍の妨害で、国策を大きく転換できなかったが、1945年に日本の降伏を受け入れるために重要な役割を果たす。

部下が上司の人事を決める

保科は昭和8年に、上海で第三艦隊参謀に赴任した時に、在留邦人や芸者が船を見学したり、機密費を艦隊が使い宴会を繰り返すことに「軍紀が緩んでいる」と激怒。一切止めるように通達を出した。各国海軍、上海租界の自治政府、中国の出先機関との関係が途切れそうになり、邦人も不快感を示した。保科は宴席にもそれまで出なかった。

すると米内が、非番の日に保科を誘い中国人街の料理店に行った。米内は保科の真面目さを褒めた上で「人間、隙があっていい」「現地の実情を知ることが大切だ、この店からも料理からもいろいろ気づきがあるだろう」「四十歳を超えたら、酒を飲んでバカになることも必要さ」と言った。米内長官が細部まで状況を観察していたこと、自分のメンツを立て庇ってくれてたいたことを知り、その懐の深さに感銘を受け、感謝したたという。保科は命令を修正し、適度な外部との交際を認め、記念日のみの艦隊の部外者の乗船許可と交流会をして、問題は収まった。その後、保科は米内を支援し続けた。

米内は一人静かに常に本を読んでいて、部下に小言を言わず、リラックスさせていたが、要所で統率を締めたという。影では隠れて遊び、花柳界の女性にもモテた。

米内は自分で猟官や出世運動をしたことはなかった。当時、海軍にそうする提督はたくさんいた。保科や山本のような部下たちが、米内を盛り立てた。米内の意向に反し日中戦争は解決せず、対米戦争は始まってしまった。出世は米内に幸せだったとは思えない。最後に健康を壊し敗戦前後には、血圧は最高280を記録するなど心身はボロボロになった。しかし日本の降伏を認めさせ、彼の存在は日本を破滅から救う一因となった。かつて保科が予見した通りになった。

国民がおかしな政治家に報いを与える

軍事史という自分の趣味に、現代の政治問題を無理に繋げてしまった。読者は違和感をもたれたら申し訳ない。ただし人間の営みはいつの時代も変わらず、参考になることも多い。

翻って、令和の政治家を見てみよう。LGBT法をやれと指示を出しながら責任逃れをする岸田文雄首相。安倍晋三氏に媚びを売り、今は猟官のためか正反対の政策に尻尾を振る政治家たち。とても醜い。

目先は彼らは自分のためになると思っているようだ。しかし国民はそれを忘れない。日本のように、現場が優秀である国では、米内光政に部下がしたように、部下が上司を決める面がある。軍隊における部下のように、政治家を選んだ日本国民はその政治家を見ている。政治家と国民の関係は上司と部下という関係とは違うものの、「見られている」「見ている」という関係は似ている。

おかしな政治家の行動にはその反動が、国民によってある。小細工をした醜い政治家たちは必ず、相応の報いを受ける。衆議院の解散総選挙が近いとされる。おかしな政治家に私たち国民が報いを受けさせる時が近づいている。

参考文献、阿川弘之「米内光政」(新潮社)

石井孝明

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